human made of

おじさんもな、若いころは藤原基央になりたかったんだ

袈裟を着たPepper君のこと

地獄先生ぬ~べ~という漫画をご存知だろうか。

左手に鬼を封印した小学校の教員が、彼のクラスメイトに襲いかかる妖怪変化と戦いながらストーリーは進んでいく。ギャクあり涙あり努力・友情・勝利あり、おまけにちょっとしたお色気ありの少年漫画の鑑のような作品だ。

 

もうずいぶんと昔のマンガなので、もはやその作品のエピソードだったのかすら記憶が曖昧なのだけれど、たしかこんなシーンがあったように思う。

 

主人公と仲の良い少し怠け者のお坊さんがいる。彼は、お葬式でお経を唱える際、ラジカセに録音したお経を流して居眠りをするのが習慣化している。けれども本人は前を向いて後ろを振り返ることはないので、参列者は居眠りには気付かずに、ラジカセから流れるお経を聴いて故人を偲んでハラハラと涙を流す。彼の居眠りを知ることが出来るとしたら、墓前の故人だけなのだ。死人に口なしとは本当によく言ったものだ。

 

先日祖父が他界し、お通夜とお葬式に出席することになったのだが、果たして今僕の前にいるお坊さんがawakeの状態で唱えるお経とラジカセから流れてくるお経とで、いったいどちらがどれだけ有難いことなのか、それを僕は見分けることが出来るのだろうかと、そのシーンを思い出しながら静かに墓前の祖父の写真を眺めていた。

 

今日自分で出来てしまう仕事を明日自分でやることは悪であり、手順化して部下の誰かにやってもらう、あるいはシステム化して自動化する。そうすることでチーム全体のコストあたりのパフォーマンスはあがっていって、生産性はうなぎのぼり。世の中の会社や組織の多くはそのようにして事業や活動を拡大している。

 

お寺も営利目的ではないにせよ組織としての活動目的があるのであれば、その目的達成のためのコスト対パフォーマンスの向上は逼迫した課題であるはずであり、自分の唱えることができるお経は、より位の低いお坊さんへ引き継いで自らはより付加価値の高い活動に、リソースを投下する。そうやって新たな仏典の解釈が、新たな悟りの境地が産まれるかもしれない。

 

では、そうやって追い出されていった、手順化されたお寺の仕事がめぐりにめぐって、機械化されて自動化されていったとして、その結果はいったい誰がどれだけ、そしてそれはどういった理由から困るのだろう。

 

人間はお経を忘れるし間違える。疲れていれば木魚のペースは乱れる。

 

けれどもロボットはお経を忘れることはないし木魚のペースが乱れることもない。ディープラーニングが進んでいけば、故人のプロフィールや活動履歴から気の利いた戒名だって授けてくれる。

 

はてさて、生のお坊さんがやってきて、LIVE的にお葬式を開いてくれることの、どこのどういうところに僕らは「ありがたみ」を感じるのだろう。何千日だって絶食修行が出来てしまう紫色の袈裟を着たPepper君が唱えるお経といったいどんな重みの違いがあるのだろう。

 

こんなシーンを想像する。

とある教会の小さな懺悔室、そこには毎日迷える子羊がやってきて自らの罪を告白する。

 

子羊は懺悔室の小窓に向かってきっとこんなことを語りかける。「ああ神父様、きいてください。罪深き私の過ちをどうかきいてください。誰にもいえない、知られていはいけない。けれども私は裁かれたい。誰かに裁いていただきたい。私は夫のいる人に恋をしてしまったのです。諦めようと思えば思うほど、この胸の奥が燃え上がるように熱くなり、気付けば引き返せぬところまで来てしまいました。裁かれたいと願いながらも、彼女に愛される幸福感を感じる私は悪魔でしょうか。あぁどうか、怒りの雷を、嘆きの炎を、私に与えてください。」

 

懺悔室の小窓の奥、世界史上もっとも信者を獲得した宗教家の声をディープラーニングしたAIは、演算がはじきだした周波数帯、テンポでゆっくりとこたえるはじめる。

 

「神は慈悲深く、すべてを許します。悔い改めましょう。そして祈りましょう。」

そして、AIは全世界、過去あらゆる道ならぬ恋に効果のあった説教シナリオを続けて演算してはじきだし、ゆっくりと語りだす。迷える子羊はコンピューターがはじきだした音声データを聴覚情報として認識し、涙をハラハラと流し、神の愛を慈悲を救済をエクスペリエンスする。

 

オランダの画家レンブラントの絵をディープラーニングしたAIは、遂に何百年ぶりにレンブラントの新作を作り上げたのだという。ただ一つ問題が、その絵に描かれた人の目に、光が宿ることはなかったらしい。

 

光が宿るということ、生きているということ。生きている、aliveの状態でいることが、AIと人間の作業の価値の差になっていくとして、では生きているということはどういうことなのだろう。

 

ブレード・ランナーよろしく、人口血液と人口内蔵を備えたロボットが産まれ、何年にも渡る巡業を繰り返すアンドロイドが産まれてきた時、神職者はその職業を奪われないために、何をするのだろう。

 

そして僕らはなにに祈るのだろう。

 

母の病気のこと

2017年2月7日の日本経済新聞朝刊に、理化学研究所をはじめとする研究チームが、視覚障害に関するiPS治療の患者を募集しているという記事が載っていた。

従来の患者自身の細胞を利用した方法と異なり、他人の細胞を利用する治療法で、これにより期間・費用を1/10に抑えることが出来るそうだ。2017年の上旬に実験を開始する予定とのこと。

 

僕の母は網膜色素変性症という先天性の視覚障害を持っていて、小学生の頃に主治医から3年以内の失明を宣告された。幸いにも現在にいたるまで光は失っていないが、僕を出産した後、病気は急激に進行し、色や形を把握する視力は随分昔に失われてしまった。

 

iPS治療はこの難病の突破口として10年以上前から注目されていた技術で、遂にそれが実用化のフェーズまできた、ということらしい。恐るべき技術進歩。

 

自分の母は随分と強い人間だったのだ、と大人になってから気づいた。

多感な少女時代に受けた失明宣告に絶望せず、何事にも前向きに挑戦する人だった。

父親とはテニス(!?)のサークルで知り合たそうだし、結婚後も小学生の僕を自転車の後ろに乗せ、片道15分の急な坂道を往復しスーパーマーケットに買い物へ出かけていた。

料理・洗濯・掃除の家事全般のサイクルは僕がこたつで1日寝ていても止まることなく動き続けていたし、ここ数年になってからは、どう入力しているのか定かではないが顔文字付きの電子メールまで僕に届くようになっている。本当は見えているのではないかと疑う。

 

母自身は、特に"意識の高い"言葉を発するような人ではなかったけれど、彼女の見えないながらに何事もなんとかやってしまう姿勢に、僕は少なくない影響を受けたと思う。自分の持ち味である所の「為せば成る」精神はこのあたりに起源があるのだと感じる。(反対に細かい所に注意がいかない所も?)。

  

そんな母に昔、「もし、いつか視力が戻る日が来るとしたらどうするか?」と何気となく質問したことがあった。母は「歳をとると、見たいものよりも見たくないものが増えるのよね。」とだけ答えてくれた。いつも前向きな母らしくないなと感じながらも、寂しい納得感のある回答だった。

 

子供の頃、医者の叔父にあこがれて、母の視力を取り戻す眼科医を密かに目指そうとしていた時期があった。

今となっては技術の進歩を待つ方がよっぽど速いだろうし、暇そうに見える僕にも任されている仕事がそれなりにあるので、この先医者になることはないけれど、iPS治療がさらに一般的なものになり、誰もが気軽に治療が受けれるようになった時、母が「見たい」と思えるような世界に少しでもなっているように、今自分にできることをがんばりたいと思った。

 

※もし興味を持ってくださった方がいたら、御覧になってください。

網膜色素変性症

 

 <追伸>

白杖をもった方が駅で迷っていそうな時に、たまに親切心で腕をグイグイひっぱるようにガイドをされる方がいるのですが、アレ、本当に怖いのだそうです。確かに自分がアイマスクしてる時に知らない人に腕引っ張られたら恐怖でしかないですよね。

「何か、お手伝いできることはありますか?」と声をかけてくれるだけで救われると、母は言っていました。

 

 

 

 

 

 

 

インターネットのこと

今となってはあまり信じてもらえそうにない話ではあるんですが、数年前まで、僕はインターネットリテラシーが同世代よりも乏しい側の人間だったと思います。

mixifacebookも誘われるまではじめなかったし、twitterも2009年までその存在を知りませんでした。(大学生の頃はエッチなサイトの架空請求の画面が表示されただけでビビり倒すくらいリテラシーがなかったです・・・。)。

 

twitterはなんのきっかけか、たぶん当時一緒に働いていた上司が仕事の情報収集のために使っていて、「ぉぉ社会人たるもの、クライアントの情報とあればweb上の情報も集めるべきなのか...」とインスパイアされ、はじめたのだと記憶しています(今はそういう意図がフォロー欄から漂うと問題なので、すべて外しましたが)。

 

仕事についていくのも精一杯で、twitterの使い方も定まらず、はじめ4年くらいは本名でやっていました。今も別に過去の履歴を消したりは特にしていないので探せば出ていると思います。

基本的には日々の仕事で学んだ教訓や、世間で話題になっている事件の感想をツイートする他、たまたまアカウントを見つけた旧友とやり取りをするくらいの用途で使っていました。

その当時、いわゆるα(アルファ)と呼ばれる特定ユーザーがいることは知りませんでした。

 

先日、悲しい事件がトリガーになって、更新停止を宣言し、姿をwebから消されてしまったみつばさんは、僕がはじめて認識し、フォローした最初のαツイッタラーだったんじゃないかと思います。彼の書いた、ブランキー・ジェット・シティについてのツイートが誰かのRTで流れてきたのがきっかけでした。

 

ブランキー・ジェット・シティは、アラサーの人間でバンド音楽に係っていた人間であれば、その人格や感性の1要素となっている存在かと思います。

自分がかつて映像で見て、美しさと切なさ、衝動、様々なものを覚えたあの頃の彼らを、みつばさんは「最高速度のまま空中分解していく飛行機のよう」と書いていました。

あの瞬間の彼らを、こんなに的確に、具体的に、情景的かつ詩的に切り取れる"一般"の"匿名"のユーザーがいることに僕は純粋に感動しました。

 

その後、twitterを通して出会った友人たちは、趣味・嗜好、嫌いなもののベクトルが自分と近しいし、仕事に対する価値観もまぁまぁ似ている(ここ数年僕は相当突き抜けた環境にいたので、彼らは「違う」といいそうですが・・・。)ため、自然と相互になれた人たちと思っています。

一方で、みつばさんは、自分とはきっと趣味も違うし、仕事に使うエネルギーのかけ方・生き方や哲学、人との線の引き方も全然違うように思うのに、ただ純粋にその文章が好き故にフォローしていた人でした。

そういう存在は本当に限られる数しかいないので、彼の文章が、言葉が、自分の生活の中から永遠に失われてしまったことは悲しい。

1ファンとして、心から寂しい。

 

きっかけになってしまった事件については、たくさん思うところがあるけれど、言葉にするとどうしても野暮ったくなるのでやめました。

 

ただ、インターネットという自由で可能性に溢れた環境・ツールが、人間の良識によって運営され、大きくなり、人を幸せに導くものであってほしいと思います。

 

LOVE & PEACEを。

 

 

 

ロジカルシンキングは冷たい道具か

ロジカルシンキングという言葉、インターネット上だと、使われるシーンとして、

・ロジカルで嫌な男

・融通の利かない人間

・ロジカルに論破してやった/された

というものが多く、その攻撃性が言葉そのものの意味になってしまっているようで悲しい。

 

頭を捻って睡眠時間を削って書いた資料を、お客さんに「こんなのダメだ」と一蹴されることが社会人をやっているとどうしてもある。

やけ酒を飲みながら、(超ロジカルな)先輩に顛末を愚痴ると、彼らはいつも「相手は、どうしてダメっていってるの?」ということを一緒に考えてくれる。

頭も少し醒めてきたところで僕も考える。自分の思考の結果だけを伝えてしまっていなかったか?共有すべき前提事項を事前に説明できていたのか?今、伝えることだったのか、伝えるべき相手は適切だったのか?

 

結果に対する「何故(理由)」を大切にする。相手の言っている言葉(結論)の理由を考えるために、相手のことを想像して、その思考のプロセスを自分でトレースする。

これは相手に対する敬意がないと出来ない、優しい作業だと思うので、ロジカルシンキングという言葉が冷たくて嫌な奴の表現として使われる所を見ると、それはただの独りよがりな人でしょう、と言いたくなる。ロジックは、人と人とが歩み寄るために作られたもののはずなので。

 

今年、「悪人」と「嫌われ松子の一生」の2本の映画を見た。

両作品とも、主人公は殺人を犯していて、その「理由」を少しずつ解明していく作品です。人を評価するにあたっても、結果だけを見るんじゃなくて、しっかりとその人の「理由」を見ないと、正当な評価は出来ないよと思わせてくれる、よい作品でした。

嘘をついた恋人が、何故嘘をついたのか、考えてあげることもナイスロジカルシンキングだと思います。

 年末年始、もしお時間のある方がいればぜひ。

 

※「理由」の大切さを教えてくれる最高の1枚を添えて終わります。

 

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目黒エリアのドープスポット集

7年住んだ土地を離れるので、よくいった場所をいくつかピックアップしてみました。また思い出したら追加するかもしれません。

お店は駅から少し遠いのですが、どれも素晴らしいお店なので、お近くにお住いの 方・時間に余裕がある方はぜひ。お店の繁栄を願うばかりです。

 

 「植物園」東京都庭園美術館&自然教育園

隣にある庭園美術館もとても素敵ですが、隣の植物園も心が落ち着く貴重な場所です。

1.5H~2Hでまわれる丁度よい規模感で、一人で瞑想しにくるもよし、デートで使うもよしの多目的スポット。庭園美術館とセットでまわると少し疲れてしまうかも。

 

www.ins.kahaku.go.jp

 

「bar」ガーデン (Garden)

大鳥神社を右手に山手通を少し五反田方面に進むとシャレオツなビルの3階にあります。朝4時くらいまでやっていてご飯も美味しいし酒の種類も豊富。めんどくさい時は季節のおすすめドリンクがあるのでそれを飲むのも◎です。

一緒に働いていた超絶美人の派遣のお姉さんがたまたま近所に住んでいた時に「愚痴好きなだけ言い合おうぜ!!!」っていって連れてきてもらったbarで(TOKYOの夜よ...)と思える雰囲気の良いお店です。

デート向きですし、(これは完全に余談ですが、たぶん五反田までワンメーターくらいでいけますょ。)

flair-upt.com

 

 「居酒屋」食と酒 のこのこ

目黒通り沿い、大鳥神社を左手に直進していくと右手に見えてくる渋い和食居酒屋。

とにかくご飯とお酒がおいしいです。結構深夜までやっているので終電帰ってきても少し飲んで帰れる貴重なお店。

 

tabelog.com

 

「もつ焼き屋」ばん 

地元で有名なレモンサワー発祥の地?といわれる「安・速・美味」大勝利間違いないしのプロレタリア系居酒屋。並んでいることも多いけど回転が速いのでまぁまぁすぐ入れます。

相席になることも多いですが、気さくな客が多いので、あまり気になりません。

個人的なハイライト回は新宿のニューハーフバーでボーイしてる年下の男の子2人組と相席したことがあって、新宿アンダーグラウンドのエピソード(仕事でお金を貯めてタイで女の身体を手に入れてかえってくるお店の女の子のエモエピソード集)をたくさん聞かせてもらえたことがあってよかったです。

 

tabelog.com

 

「ラーメン屋」ちょろり

目黒通り沿い、目黒消防署のすぐ隣あたりにある雑居ビル1階に怪しく光る黄色い看板が目印の小さなラーメン屋。

店があいてるかどうか電話番号も公開していないので目視以外に確認する術はなく、店の前の張り紙に書かれている営業時間であっても必ず空いている保障のない強気の経営スタイルを貫くお店。

とにかくラーメンと餃子が異様に美味しいです(個人的には全ラーメンの中で一番好き)。。あと寡黙な店主が一人で取り仕切っているのですがそのオペレーションの美しさに目を奪われます。無形文化財です。

大きめの仕事が終わった後、仕事がうまく評価してもらえなかった時、自分をぼんやり励ましたい時に一人で来ることが多くて思い出が多いお店です。

 引っ越し前に最後いきたかったんですけどかなわず。

 

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