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おじさんもな、若いころは藤原基央になりたかったんだ

母の病気のこと

2017年2月7日の日本経済新聞朝刊に、理化学研究所をはじめとする研究チームが、視覚障害に関するiPS治療の患者を募集しているという記事が載っていた。

従来の患者自身の細胞を利用した方法と異なり、他人の細胞を利用する治療法で、これにより期間・費用を1/10に抑えることが出来るそうだ。2017年の上旬に実験を開始する予定とのこと。

 

僕の母は網膜色素変性症という先天性の視覚障害を持っていて、小学生の頃に主治医から3年以内の失明を宣告された。幸いにも現在にいたるまで光は失っていないが、僕を出産した後、病気は急激に進行し、色や形を把握する視力は随分昔に失われてしまった。

 

iPS治療はこの難病の突破口として10年以上前から注目されていた技術で、遂にそれが実用化のフェーズまできた、ということらしい。恐るべき技術進歩。

 

自分の母は随分と強い人間だったのだ、と大人になってから気づいた。

多感な少女時代に受けた失明宣告に絶望せず、何事にも前向きに挑戦する人だった。

父親とはテニス(!?)のサークルで知り合たそうだし、結婚後も小学生の僕を自転車の後ろに乗せ、片道15分の急な坂道を往復しスーパーマーケットに買い物へ出かけていた。

料理・洗濯・掃除の家事全般のサイクルは僕がこたつで1日寝ていても止まることなく動き続けていたし、ここ数年になってからは、どう入力しているのか定かではないが顔文字付きの電子メールまで僕に届くようになっている。本当は見えているのではないかと疑う。

 

母自身は、特に"意識の高い"言葉を発するような人ではなかったけれど、彼女の見えないながらに何事もなんとかやってしまう姿勢に、僕は少なくない影響を受けたと思う。自分の持ち味である所の「為せば成る」精神はこのあたりに起源があるのだと感じる。(反対に細かい所に注意がいかない所も?)。

  

そんな母に昔、「もし、いつか視力が戻る日が来るとしたらどうするか?」と何気となく質問したことがあった。母は「歳をとると、見たいものよりも見たくないものが増えるのよね。」とだけ答えてくれた。いつも前向きな母らしくないなと感じながらも、寂しい納得感のある回答だった。

 

子供の頃、医者の叔父にあこがれて、母の視力を取り戻す眼科医を密かに目指そうとしていた時期があった。

今となっては技術の進歩を待つ方がよっぽど速いだろうし、暇そうに見える僕にも任されている仕事がそれなりにあるので、この先医者になることはないけれど、iPS治療がさらに一般的なものになり、誰もが気軽に治療が受けれるようになった時、母が「見たい」と思えるような世界に少しでもなっているように、今自分にできることをがんばりたいと思った。

 

※もし興味を持ってくださった方がいたら、御覧になってください。

網膜色素変性症

 

 <追伸>

白杖をもった方が駅で迷っていそうな時に、たまに親切心で腕をグイグイひっぱるようにガイドをされる方がいるのですが、アレ、本当に怖いのだそうです。確かに自分がアイマスクしてる時に知らない人に腕引っ張られたら恐怖でしかないですよね。

「何か、お手伝いできることはありますか?」と声をかけてくれるだけで救われると、母は言っていました。

 

 

 

 

 

 

 

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